「死ね」「お前を殺す」と言われたことはありますか?
ある場合。
「お前と同じ世界にいるぐらいなら俺は自殺する」
と言われたことはありますか?
両方ある場合。
どちらがより言われて苦しくなりますか?
言われたことのない方にも同じことを聞きます。
どちらが言われたらきついと思いますか?
私は実の母親に後者を言われながら育ちました。
表現は少し違います。
彼女の口癖はこうでした。
「お前といるぐらいなら死んだ方がマシよ」
いつから言われ始めたのかは覚えていません。
意味がわかったのは幼稚園のときでした。
母が私を散々殴った後で最後にそれを言い捨てて
隣室に行ってしまった日のことでした。
やっと話せるぐらいになった妹がとことこやって来て、
「ママとなりでえんえんしてるよ」
と私に言ったのも覚えています。
私が生きている、存在している、ただそれだけのせいで
大人が、それも自分の親が死にたいと考えるんだ――
自分はほんの小さな子供だと思っていた私には、
それはとても大きな衝撃でした。
私自身が殴られるより、首を絞められるより、
「死ね」と言われるより、その言葉は重いものでした。
私が生まれたせいで母は苦しんでいるんだ、
母は私を産んだことをきっと後悔していて、
だから死にたくなっちゃうんだ、と思いました。
その後も同じ言葉を投げ付けられるたび、
私は内心で「ごめんなさい、私がいてごめんなさい」と
ひたすら平謝りしていました。
声に出して「ごめんなさい」とも言っていたけれど、
それは殴られる恐怖と痛みから開放されるための悲鳴で、
心の中の“ごめんなさい”とは違うものでした。
「こんな目に遭い続けるならいっそ殺されたい、
そうすれば母は酷い母親として逮捕されて、
一生癒えない傷を持つことになる――」
そんな反発心が芽生えたのは小学校に上がってからの話で、
幼稚園時代の私はただただ自分が存在していることを
自分で責め、後悔するだけでした。
これが私の根深い自己否定の原点だと、私は思っています。
今でも事あるごとに私の中の私(=母親)が叫びます。
「お前(私)なんかがいるから――」
自責パニックのときに自分のことを
「こいついらない、殺す」と言うのも、その名残でしょう。
記憶喪失になりたいです。